2007年10月01日

「エコロジーをビジネスにして20年」社会起業講座第1回

横浜ベンチャーポートでは、ソーシャルアントレプレナー(社会起業家)セミナーを、原則毎週行っております。最初の4回は「ワーカーズ・コレクティブ」で起業したエコロジー・子育て・安全な食・介護の4業種を連続で開催しました。第1回目は、「エコロジーをビジネスにして20年~そのノウハウの全てを伝授」と題し、横山喜美枝さんからのお話です。

「エコロジーをビジネスにして20年」社会起業講座第1回

以下、その講義をもれなく掲載。でもその場の臨場感と貴重な配布資料は当日ご参加された方だけの特典。どうしても当日資料(当時の詳細な事業計画書と決算報告や広報資料などを含む)をご覧になりたい方は、ベンチャーポート事務所に一部保存しておりますので、閲覧可能です。

(ひ)

「社会起業講座: Ⅰ期 夏のトークアンドトーク―聞いたもん勝ち!社会起業家の経験」


ワーカーズコレクティブとは

 60年代後半から世界各地で学生の反乱を機に戦後的な価値の見直しが起こった。そうした世の中の趨勢の中で、日本では公害問題など高度成長の影の部分が焦点になったり、女性解放運動が起こったりした。そんな中で、ヨーロッパでは70年代、企業の偽装倒産に対抗して、従業員が自分たちで自主生産という労働者協同組合の実践などが起こり、アメリカではベトナム反戦などを経たのちのアメリカの西海岸を中心に、ヒッピーたちが自分たちの納得のいくコミュニティをつくってそこで働こう、ただ働かされるのではなく労働を自分の手に取り戻そうという運動として、メンバーが出資して経営して労働するというワーカーズ・コレクティブの実践活動もあった。実は日本でも明治時代に賀川豊彦を始め、協同組合の運動が起こり、実は労働者協同組合中で古くから実践例があった(豊彦自身が1912年一膳飯屋「天国屋」を開業したと言う話はおもしろい)。ワーカーズ・コレクティブと言う言葉自身が日本に入ってきたのは、80年代。アメリカの西海岸から輸入され、神奈川県で「にんじん」の設立がはじめてだった。現在各地に広がっている。ワーカーズ・コープといわれたり、高齢者事業団のようなものもあるが、この講座での紹介としては主としては既婚女性たちが自分の生活の中で感じた問題点を事業として解決しようとした時に、誰かに雇われるのではなく、出資と労働が同じ人が担い、各自が平等に対等に扱われる事業のあり方としてワーカーズ・コレクティブをとりあげた。

現在、グローバル化の中、格差社会といわれ、資産家が会社を保有し、所有と労働が別々になって、株主の配当のために人件費コストを節約しワーキングプアが増大し、生協が勃興した20世紀初頭のような状況になっている中で、逆に原点にかえって協同組合のあり方やそのひとつであるワーカーズ・コレクティブの、一人ひとりが平等、出資金の多寡ではなく、一人一票というラジカルさが注目され、また新しい意味を持つのではないか。NHKで話題になったハゲタカというドラマも、EBOという、雇用されている人たちが株を買って所有するという結末が用意されていた。2000年代的な文脈で、このラジカルなあり方を再考して、これから若い人たちなどにもワーカーズ・コレクティブのような働き方がひろがっていくといいと思っている。


コーディネーター 榊原裕美
現在横浜国立大学の博士課程在籍中。大学の修士課程ではワーカーズ・コレクティブの5例を紹介する修士論文を上梓。アントレプレナーシップをメインにしたスウェーデンヨンショピン大学のビジネススクールに1年留学。ボディショップ志型の事業が最先端のものとして紹介されたり、アントレプレナーだけではなく既存企業の中でも組織の中で革新をはかるインタープレナーというあり方もあることを勉強した。自身は生活クラブ生協という、30年以上前に出来たこれまた今でいう社会起業の中に15年働いていたが、そこでの自分の活動はインタープレナーだったと思う。

社会起業の精神を働く人一人一人が持って、労働や社会に関われるようになるにはどうしたらいいかを実践し考え続け図らずもライフワークになっている。

第1回:8月29日(水)午後6時半~8時
「社会的起業に関わって20年―事業の誕生から終わりまでの経験から見えたこと」
ゲスト:横山喜美枝さん(㈱第一螺子製作所代表取締役)


 1947年生まれ。大和市在住。1985年、新横浜に自然食レストランデ・ファムを仲間と開店。その後、レストランを閉店し、年本厚木の商店街にエコ・アミューズ・バオバブを開店。その際、神奈川県スタートアップ貸付金「社会性のある事業の開業の要件」適用第1号となり、その事業計画は、その後の事業の手本に。漢方やレストラン、オーガニック食品、ナチュラル雑貨などを扱う。2004年、閉店し、夫亡き後製造業の工場を引き継ぐ。ワンマンの小企業をこれまでの社会的起業経験を活かした運営方法で業績を上げ、今年、宮城県に新規工場をエコ・ファクトリーとして建設した。


起業のきっかけ「ワーコレって面白そう」と現実の厳しさ

 横山喜美枝です。今年60歳になりました。(え~っ!(若くみえる))根がおっちょこちょいなので、問題提起をされるとすぐにそれにのる。私は学歴もないが、30年生活クラブ生協の組合員で、食の安全や環境問題など、生活クラブ主催の講座には結構有名な大学の先生が来て、レクチャーしてくれ、下手な大学行くよりすごく勉強させてもらった。子どもの手が離れかかったときに、働きたい仕事がなかった。正社員はもちろん無理。そうするとスーパーレジ打ちとか箱詰めとか時間の切り売りの仕事しかない。夫に扶養される専業主婦は非常にうしろめたく、何かしたかったところに、84年、生活クラブ生協が新横浜に本部ビルを建て、そこの1階にレストランをつくるがやらないかという話を理事だったのでいち早くきいた。その2年前にワーカーズ・コレクティブ「にんじん」ができたとき、ワーコレってすごくおもしろそうと思った。偉い人偉くない人がいない、誰にも雇われない、参加者みんなが平等でみんなで経営する、経営の責任もその結果も全部自分たちで引き受ける。誰かがぼろ儲けしてポッケに入れて残りをみんなに分け与える、じゃなくて、一人一人が自立してよっかからず責任をとらないとできない非常に高度な働き方。成功したらすごくおもしろいだろうと思った。

 そう思ってにんじんのメンバーになったものの身近に働く場所がなくて、出資金を払っただけだった。そんな時だったので、レストランの話にとびついた。自分なりに調べてみると、15坪のスペースでオープンするには相当のお金がかかる。無理だと思ったが一人ではだめでも5人、10人でお金を出し合えば、と思って、準備期間を1年おいて、仲間を募りどういうレストランにするか全部自分たちで組み立てていった。声をかけて集まった人はみんな専業主婦。女性は、かわいいお店をやりたいという夢をもっている人が多いが、現実はそんな甘いもんじゃなく、全部お店を中心にしないといけないから、家族や子どもがいてお店を運営するのは簡単ではない。だから、夫が反対、子どもがまだ小さいとか言う人は皆落っこちていく。最初20人くらい集まったのが、最終的にオープンする時には4人になった。

 ど素人の集まりだから、みんなで手分けして勉強した。喫茶や経理の勉強、主婦でも人に食べさせられる料理を勉強など。開業に800万円が見積もられたが、お金を借りようと市中銀行歩いたものの、どこにも相手にしてもらえなくて、結局生協から、自分たちで半分の400万用意すれば半分の400万は貸してもらえることになった。生協の本部ビルの1階ということで非常に優遇された。みんな30代後半の主婦でそんなにお金なくて働いてもないからへそくりの範囲内。失敗してなくなってしまうかもしれないことを覚悟のうえでいくらなら出せますか、みたいな話になって、やっぱりギリギリ出せて50万、4人で200万、あと200万は個人的なツテでかき集めて、生協から400万借りてオープンした。結構うまくいって、5年で完済しました。

シュフがシェフのお店、みんな平等、働くだけでない働き方大成功!

それで、非常に乱暴なやり方でも、私たちはワーカーズ・コレクティブという働き方がすごく気に入っていたから、とにかく平等にした。キッチンは日替わりシェフで毎日変わる。家庭料理を皆さん飽きずにおうちで食べられるのは、奥さんの体調によって味が変わるんですよ。お味噌汁が辛くなったり薄くなったり、炒め物が今日はしょっぱいとか、それが家庭料理なんですよ。だからファミレスみたいにいつも同じ味で同じ盛り付けでは飽きる。私たちは日替わりシェフで行こうぜ、で、大成功しちゃったわけです。新横浜は今と違って、横浜アリーナもなく駅前にキャベツ畑がばーっと広がって、ラブホテルがいっぱいで、降りるのはちょっと恥ずかしいような頃だったけど、レストランの前に「主婦がシェフのレストラン」と看板出して、それでも結構行列ができるくらいに流行った。

経理も毎年経理担当が変わって、必ず副がついて、翌年その副が経理をやる。10年やると10人全員できる。今と違ってパソコンがないので、全部手書き。そろばんいれて、試算表とかをつける。10年たつとみんな複式簿記のプロになる。ウェイトレスも交代、全部交代。

 最初は4人だったんだけど、すぐに3人やめてしまって私が1人になって、死ぬほど働いて次の人を募集して、何とかがんばり4年後に10人になった。15坪の店だから客席が30だけ。10人なんか実際多いわけですよね。でも10人でいい。10人いても働くのは週に半分で、いつも5人が家で待機している。子どもやお姑さんがいたりすると、急に熱を出すとか、寝たきりになるとかアクシデントが起こりますから、交代要員がいつもいる。それに、これは私の持論ですけど、働くだけの人生はつまんないですね。子どもの相手もしたいし、夫とのコミュニケーションもちゃんととりたいし、地域ともちゃんとつながってPTAも行く、そういう贅沢な働き方をしたい。収入も、働く喜びも欲しい。フルで働くだけではなく、いろんなイベントがあちこちである時に、行きたいし行ける。そういう働き方が私はとても気に入っていて、そこそこ事業もうまくいき、すごくおもしろかった。

それを10年やって私は1000万ためました。生活費は夫から出してもらって、自分で働いたものは全部貯めて、1500万くらい貯まったかな。そんなにすごく働いたわけじゃない。月に10万以上稼ぐから、年に120万、10年働いたら1200万、他の人は生活費に使っちゃったりいろいろ。私は、何の予定もなく、しこしこ貯めてました。

ずっと順風満帆というわけではなくいろんな事件が起きて、泣いたりわめいたり大騒ぎしたりしたけど、素人ではじめたわりにはおもしろくて、すごく楽しかったんですね。その間、私はヨーロッパとアメリカにワーカーズ・コレクティブの視察に行ったりとかアメリカのNPOの代表団と交流をしたりとか、天安門事件の前の年に中国に行って交流してきたりとか、楽しい40代を過しながらいっぱい人脈ができた。

新しいエコショップバオバブに向けて

 そのうちに、友人から、「今の仕事をやめて、あなたと事業がやりたい」と言われたんです。一緒に旅行に行った時に、彼女と話をして二人で何かやらなきゃね、とすっかり意気投合して、でも、私は全部それを忘れてたんですけど、彼女はしっかり覚えていて「言ったよね、あの時やるって言ったよね」「・・・そうだね」で、バオバブになった(笑)。レストランは私が代表をしていたが、10人いて代表変われば抜けられたが、すぐ抜けるのは困るといわれ2年ダブりながら準備を始めた。そもそも環境に関心があった。レストランはおもしろいが、毎日の仕事に追われてしまう。合成洗剤を使わないで、手で全部料理も作るので売れるだけ損する、そういう店だった。そもそも私は何がしたいのか?と、はたと考えるとやっぱり「環境」だと思い、93年、彼女とエコショップをはじめることにした。そのころ仙台の「ぐりん・ぴいす」という加藤哲夫さんのお店を拠点にエコロジー事業研究会があった。加藤さんは「私はエコショップのコンビニ化をめざしてます」と胸を張っていたが、私たちは「エー、やだあ、コンビニ化なんて」(笑)といっていろんなところを見て情報を集めた。当時、自然食品店は暗くて狭くて駅から遠くて、店員が汚くてヒッピー崩れみたいなところばかり。私たちは広くて明るくて駅から近くてきれいでかわいいお店をめざそうと思いました。「これってダメじゃん」って言うのを解決する店にしようと。20坪をさがしていたが40坪が見つかった。えいや、と借りることにした。半分ショップで半分カフェ、プラス漢方薬局、途中からヒーリングルーム、と言う形で作りました。

パートナーは私より2つ年上で「ここで二人の人生を表現しなかったら、もうチャンスは無い、人生の集大成だね、もってる引き出しは全部出す」といって始めた。でも、エコショップは基本的に儲かりません。どうやってペイしていくか、です。それはなかなかおもしろかった。

 お店を経営するということ

 だいたい立ち上がり資金は坪当たり100万というおおよその目安、40坪を見つけたから4000万。相当お金かかるという試算で、安く上げるために地縁血縁、女の強みでかっこつけずに、なりふり構わずやりくりして3千2,300万で収まる形で概算して二人で500万ずつ出して株式会社を作った。私は若い人に来て欲しかった。パッケージとかが重要。内装も全部木で作った。客が店を選ぶのではなく、店が客を選ぶ。こういう客に来て欲しいと思えばそういう客が来る。そういうもの。株式会社を作るときも大変。銀行にお金持って言っても女だと慇懃無礼に断られる、40坪の物件を借りるときも大変、美容院かスナック以外女にはなかなか貸してくれない。神奈川県のスタートアップ貸付金がその年94年に出来て、春にその情報を県の職員の知り合いから聞いていて、銀行を通さないで県に直接いったらかえってよくて、最初の年で第1号だったので実績を作りたいということでバックアップしてくれた。通行料調査のデータをくれたり、後押ししてもらい、融資の満額2000万を借りることが出来ました。ちゃんと完済しましたよ(おー)。

資料としてお渡ししたのは「事業計画書の作り方」のワークシートのパンフ。県に融資を申し込むための申請を一所懸命書いて見事融資がおりたんだけど、その後何年かした後、この事業計画書は大変いい、今度学習会を開くのでその時の教材として使わせて欲しいといわれ了解、そうしたら、この県の「事業計画書の作り方」の中に例として載った。うちは一銭ももらっていないのだが、教材として何万円も出す講座の受講者にだけ配られた貴重なもの。だから今日来た人はこれがもらえてとってもお得ですよ。94年だけど、それほど古くなっていないと思う。この事業計画結構かっこいいこと書いてあるんですよ。けっこうシビアに計算したけど、それでも実際はきびしい。毎月毎月月次決算を出してすぐに対応する。この売上に対してでは人が多いからやめてもらわなきゃとかこれを達成するには新しいことをしなくちゃとか、修正していくわけです。こうして何とか続いていかれました。

 資金不足の調達ですが、アメリカで金銭的にも精神的にも支えてくれる存在でエンジェルがあると聞いてこれはいい、と、あの人ならという人に「エンジェルになりませんか?」と言う案内を出した。2ヶ月以内に500万円集まった。お金より、私たちを信頼してくれたことがうれしい。自分たちもやりたいけどやれないから代わりにがんばって、と言う人が5万円から20万まで出資してくれた。バオバブを取材した記者が感激して、末広がりの8で8万円出資してくれた。エンジェルになるということは、応援団になるということ。所有感ももてる。遠隔地の人が1年に1回バオバブツアーに来てくれたり。お金、というよりいつも気にしてくれる。とてもよいやり方だと思う。その代わりお金を借りる側の責任が重いし公開もしなければならない。ワーカーズ・コレクティブで毎月月次決算だしていたから、苦にならない。月末締めて次月の10日にはみんなで会議、毎月毎月分析して、来月どうしようかを積み上げたガラス張りの経理。ただのおばさんたちがすごいでしょ。

エンジェルは、5年で返済の約束だったが、5年後、布ナプキン輸入事業を立ち上げたときで、先払いしなくちゃいけなくて苦しかったので、もう少し延期して欲しいとお願いしたら、1人以外残してくれ、3人は追加してくれた。その時みんなそれほど返して欲しいと言うわけではないと思った。くれたつもりでいたと思う。でも閉店した時、全部返しました。エンジェルはもともと投資だから儲かれば見返りが有る。うちはお金以外の見返りでした。エンジェルは、70人くらいで500万集まった。出してくれそうな人を狙って。50近くまで生きていればそういう人がそのくらいはいるでしょう?経営処理上は短期借入金で計上してました。

 こうして今までの積み重ねを全部集約してお店を経営した。

 40坪の家賃坪当たり1万で40万円、返済金を、毎月20万近く返して、社員に給与を払って必死じゃないと成り立たない。週1の休みをとっていたけど、休みの間も家賃払っているのに4日も休んでいては、もったいないと。でも毎日平均10万最低売らないとペイしない。月300万ないといけない。小売業としてはすごくきつい。カフェと物販が半分ずつ。カフェは7割もうけ(粗利)。物販三割。だから両方やってよかった。何人かに相談したときには物販とカフェを両方やるところは成功しないどっちつかずになるといわれた。よくよく考えると、物販をやっていて、休める場所があったらいいよね、みたいな軽いのりで、飲食をバカにしているような人がやると失敗する。飲食業はものすごく大変で手間がかかる。

コーヒーを一杯400円(バオバブは500円だった)、カフェで150万稼ごうとしたら、1日125杯近く売らなきゃ行けない。席数30だから4回転、1つの椅子に4人座ってもらわなきゃ行けない、そういうの含めて計算してやっていくわけですよ。細かく日報つけて。カフェはドリンクの方が儲かる。ご飯を売るとダメ、とくに和定食は絶対やめたほうがいい。和定食は600円くらいで食べたいと思うでしょ、でもパスタなら800円くらい平気で払うでしょ?パスタの方が儲かる、原価率20%和定食40%、だから外食するときは和定食。パスタは家で(爆笑)。夢も細かく数字で抑えていくと、どれだけ大変か、いや楽勝だとでてくる。それをやっていかないときついですね。うちも物販は最初食品が多かったが食品は粗利が3割取れない、儲からない。当時は化粧品は悪と思っていたが未婚のおしゃれでかわいいのが好きな女性の若い客を見込んでいて、斜め前がパルコで、パルコのおねえさんが来てくれていて、髪がひどくて石鹸シャンプーをすすめたりした。肌もひどくて、顔はどうするという話になった時に化粧品を扱うようになった。化粧品の粗利は4割くらい取れるのでだんだん化粧品が売上の多くを占めるようなった。

お客はコンビニのようにだまって買い物すると思うかもしれない。実はみんなおしゃべりしたい。みんなありとあらゆる事をしゃべる。就活の時はリクルートスーツで客の女の子たちがへろへろになってくる。わたしだったらそんなリクルートスーツを着るような女の子は採らない、といっちゃったりして(爆笑)、そういうコミュニケーション、話が出来る店、バオバブは他と違うと。そうしようと思ったんじゃないけどそういう店になった。飲食店は回転を多くしたいから長居を嫌う。でもうちは長いお客大歓迎。一番凄い人は開店の時に来て閉店の時に帰るという人がいました。まずお茶して、店内を一通り見て、お昼を食べて漢方薬局にいって相談して、回遊(笑)して、おやつして、また回遊して、夕食して回遊して閉店までいてくれた。1回目見た時は気づかなかったものも2回目3回目に見つけてたくさん買い物してくれる。お客さんのいる時間が長い。長いとお友達になってしまう(笑)。「バオバブ通信」の後半はこういうお客さんがただで作ってくれたんですよ。

 通信についてですが、みんなたいていこういうものを出したいという。だせるようになったらだそうね、と。でも出すなら最初から出さなきゃだめ。なるべくきちんと定期的に出す。客のため宣伝のためでも結局自分たちのためになる。記事を書くのに勉強しなきゃいけない。書いているのは若い人たち。2年くらいで変わっていくけど、キッチンに入りながらお店で売りながらレジ打ちながら記事も書くと。そういうやり方で見てもらうと分かるが、物に対する愛情とか自分たちのスタンスがちゃんと出ている。出し続けるのはきつかった。相棒の娘が病気になったり、夫が死んだり私が癌になったり、いろいろあって私の夫がなくなったり出し続けるのは大変だった。10年間隔月で58号まで出した。これは本当に財産。歴史も分かるし。

宣伝について

広告は、最初の折り込みチラシだけです。後はバオバブ通信が宣伝媒体。最初に「明日開店」という記事が新聞に出たりしたのは、開店するとき記者クラブにいったんです。普通そんなことしないだろうだけど、石けん運動や消費者運動のノリで、お店の内容を書いたものを持って厚木市の記者クラブに行ったら東京新聞が反応してくれて記事にしてくれました。東京新聞系の「ショッパー」ていうミニコミ誌がその後もよく記事にしてくれた。私があちこちでわめくし、記事としておもしろかったからか、すごく取材が多かった。全部ただで書いてもらった。有料の取材はすぐ断る。普通、取材者のお茶などはご馳走するようだが、うちは全部お金もらいました(笑)。プライド高く。そういうかたちで、年に3、4回はコンスタントに取材、ただの専業主婦がやって成功したと新聞に載せてくれた。穴埋めの記事に良く使ってもらった。

一番多いとき2000部発行した「バオバブ通信」だけど、新聞社や役所や女性センターに関係なく送っちゃう。お客様には切手代として年間千円の購読料で送ってもいたが、送る作業が途中から大変になって、お茶をご馳走してボランティアでお客にやってもらった。結局あまりきついので郵送は途中で中止。

お客の中でインターネットなんでやらないの?といわれ、やってくれる人があって、ただでとってもいいのができた。ネット販売にすればと言われた。一度閉めたお店の2代目の事業がネットで大評判、という麹やさんなど、凄く当たったケースがあるとかいって勧めるんだけど、メーカーはいいんだけど小売りは無理だといったの。でもだめもとだということで、ネットショップを立ち上げてくれた。それまでにお客が引っ越しで遠くに行った時、欲しいからと100人くらい通信販売をしていた。うちの客はみんないい人で、郵便振込み用紙を入れて商品を送るという後払いで焦げつきが一つもない。でもインターネット販売の人はわがままで、頭にきて1年で締めました。ひどい人はたくさん注文して、欲しいもの一つ二つとって着払いで送り返してくる。私たちのお客さんじゃないねーインターネットの人は、ということでやめました。楽天でお金を払う利幅も無い。

 いろいろやったらいいということは全部やってみたんです。

自分たちのために設立趣意書を

 パートは雇わず、雇うなら正社員、アパートを借りて生活が出来るレベルに社会保険もかけて、使い捨ての労働は絶対しない。自分たちの報酬がゼロでも、と志は高く持っていました。普通作らないと思うが、すんばらしいことが書いてある設立趣意書を外部の誰かのためにではなく自分のためにつくった。現実は厳しいので、めげたり、ひよりたくなるときがある。例えば浄水器とか空気清浄機とか値の張る情緒的な根拠の無いものや健康食品は売らない、バーゲンはしないとかいくつか決めたけど、苦しいときには迷う。そういうとき、なんでこの会社始めたんだっけ、といつもここにもどれるんです。

 また、通信に起業相談します、と書いて2時間で5千円で、相談を受けていた。安いでしょう? 40人くらい相談に来てほとんどの人には、やめたほうがいいとアドバイス。5人くらい起業した。私たちの設立趣意書のような核になるものを持って、よっぽど覚悟ないと。関心があるだけではきつい。おもしろそう、だけではだめ。家賃は売上の10%以内にしなきゃいけない、と聞くと愕然とするらしい。ふわーっとおもっているだけで、自分の都合を優先する人もだめ。金持ちなりたい、ベンツに乗りたい、とかだと周りの人は応援してくれない。かっこよく「環境です」とか言うと応援してくれ、自分のよりどころになる。全部が社会的にかっこいいことばかりじゃなくてもいいんだけどね。カフェをやるのが夢なんです、とかいう人は、カフェが出来たらもう夢がかなってあとがないんですよね(笑)。オープンするのが目標ではだめ、オープンは手段、そこであなたは何が実現したいの、ていうものを持ってないと続かないんです。だいたいみんなにやめたほうがいいよと言ってました。損しない前にやめておくというのは大事。行政がやっている起業相談とかは、「どんどんやんなさい」だから、私は危ないなあと思っているんです。失敗する人を育ててるんじゃないかって。夢を語るのはいいけど夢の反対のものをみせないと。やろう、やろうで立ち上げるとしんどくてだまされたみたいに思う人がある。起業した5人のうち1人はすぐ閉めた。半分くらいは続いてるかな。

「やりたいこと全部やったらバオバブになった」

そうやって始めたが、地方都市本厚木で、物も売りたいけど情報発信の拠点にしたかった。なんでも情報もってきていいよ、としたらとても受けて、バオバブにきたら何でも分かると今のようにインターネットの無い時代喜ばれました。

こうして事業が、要望でどんどんひろがった。93年に自宅をOMソーラーに建て替えて、その時建築のことを勉強して、シロアリ駆除の安全なものとかね。人から、家を建て替えたいんだけど安全な木で作りたいといったら価格が倍になるっていわれたけどどうなの?みたいな相談を受けたりして、グリーンネストプロジェクトを立ち上げた。親しい人に相談に乗ってもらうことにして、新築3件くらい立てた。エコショップで新築3件立てたってすごいと思いません?

 より安全により安心に、と考えると衣食住全部絡んでくる。そこには教育や文化も入ってくる。とってもおもしろい。これを事業としてきちんとやっていけるというのを見せて、次に続く人を作りたいというのが私たちの気持ち。というのもたいてい成功していない。くうやくわずでなんとか、というところさえ少ない。世間並みに稼げるということを見せたいと必死になって続けていました。エコ研の集まりでバオバブに日本中から集まってくれて、その時のキャッチ・コピーが「やりたいことやれること全部やったらバオバブになった」という呼びかけだったんです。今まで溜め込んだものもの全部出して、でも出すだけだと人間はしぼんでいってしまう。デファムの時もそうだが、店の中に埋没してしまわないで外とつながることが大切。自然食品店はどうして元気が無いか。一人なんです。外とつながらない。最初の時だけネットワークがあるが5年たっても8年たっても一人で店の運営につかっちゃって情報は紙で来るけど肌で感じられない。一人でやっていると店を閉められないでしょ、目の前のことをこなすだけで疲弊していっちゃう。いつも首一つ出していなければならない。どんなにきつくても自分の給料を半分にしても誰かを入れて、その人に働いてもらって充電しないとどんどん磨り減っていく。
 
バオバブを閉めて次のチャレンジ

 「第一螺子」という創業50年の会社のワンマン社長だった夫が急死し、やる人がいなくて頼み込まれた。死ぬと1週間くらいで次の人を決めなきゃいけない、今だけということで、引き受けたけど、ものすごく大変。とてもじゃないけどできないと、3月に亡くなり10月にバオバブを結局閉めました。というのも7月で借金完済したので、まいいか、と。ちなみに螺子とはねじのこと。大手事務器機メーカーの下請けで、プリンターとかの精密なねじを作っている。夫はワンマンで全部仕切っていたので、従業員はそれに慣れている。私はど素人なのに会議開くと私にどうしましょう、と(笑)、わたしわかんないよー、ですごく困った。引き受けて1ヶ月目くらいに、こんなんじゃこの会社だめになる、みんな一人一人が経営者のつもりでやる気がないなら閉めます、といったんです。40人社員がいたんだけど、私はこれまでワーカーズ・コレクティブでやってうまくいった。だから会社だってそれで上手くいかないわけないんだからやったらどうよ、というと、みんな会社がなくなるの困るからとりあえず「いいですね」ていうんだけど、実際はガラス張りとかしても全然だめ。決算書は見せたってみんな読めない。ただのおばさんだって読めたからおじさんだって読めるでしょと言ったけど、読めない(笑)。すごく困って、システム変えようと細かく権限を渡して丸三年たってなんとか形にはなってきた。いまは大企業も「環境」を言うので、設備が老朽化していたり汚かったりすると、仕事がない時代になった。材料の鉛なしとかそういうことはクリアできるけど、50年やっている工場だからどんなに掃除してもきれいにはならない。認定工場になるには基準をクリアしないと仕事もらえない。みんなに「どうする?続けるには工場を新しくしなきゃいけないけどすごくお金がかかる、そのためにはみんな腹をくくってもらわなければならない。それがやなら閉めるしかないよね」と言うとみんな生活かかっているからやるって言うんだよね(笑)。そういうことで、宮城県の角田ということころに新工場を建てました。1000坪の土地を買って250坪の工場を建てたんです。すごく大変。やっぱり私がやるなら私らしくと屋根に太陽光発電を99つけました。99枚でも1000万円以上かかったのでほんとは300つくんだけど儲かったらまた乗せる。雨水タンクもつけた、建物は10センチの厚みのRCなので断熱効果がある。屋根も熱を放射する屋根材に。250坪の工場にエアコンは一個しかないけどすごく涼しい(驚)。

社員の意識が変わるのは大変。そっぽ向いてるのを無理やりこっち向けて、1年くらいかかってまだ、やっぱり責任をどこかに持っていきたい。みんな私と同年代で定年で辞められると困るので、給料を下げて、いてもらい、年配の人をスカウトする。製造業はとっても大変。未だに3円50銭とかの単位、0,0何ミリで不良品になる、なんという世界かと思いました。物を作るのはベテランだけど、経営についてはなかなかいかない。常に耳のそばでワー、と言わないと入っていかない。おばさんのほうが楽、おばさんは基本的にまじめ。分からないことは分からない、と言うし、ケンカもする。おじさんは本音と建前がすごくある。面と向かってはいわないから困る。そういうことで今とってもとっても苦労してます。

質問
Qバオバブを買い取りたい会社は無かった?

 顧客リストだけでも2000人あった。コーヒーサービス券。なかなかたまらないとみんな捨てちゃうけど、1000円で一個、5個たまったらコーヒー一杯。これだと5000円でコーヒー一杯だから一日でも貯められる。それに住所と名前を書いてもらう、それで顧客リストが2000以上できた。うちのような店は周りに全然無いから、うちで売ってるのが他で売っていると言うことがない。うちの子はアトピーだからこれしか使えない、お茶も完全無農薬じゃなきゃ。と言うお客を無責任に放り出せない。そもそも賃貸だから契約が終われば、完全に原状復帰しなきゃいけない。床が床材じゃなくツーバイフォーの柱材、を使ったり特注なので、愛情もあり壊すに忍びない。そこで同じような店をやってくれる人に引き継ぎたいと半年くらい探しました。見つけたんです。このまま使う交渉をして、最後の「バオバブ通信」で、うちで扱っているものを次の店でも扱う、とかっこよく閉めました。今もまだ同じ場所で晴れ屋と言うお店があります。うちのお客はそっちにいった。20代の男の子でもう一店出すそうで、このバオバブの後も何軒目かを開店してでやり手。

Qエコロジー関連の今後の見通しについてどうか。

本物のエコで事業するのはきびしい。大きい所は宣伝にお金かけるし開発も上手。私たちがこつこつやった事もまけちゃう。痛い目にずいぶん遭いました。事業計画はなるべく控えめに立てたほうがいい。店の商品2000点あったけど、全部その商品の背景を説明できた。誰が作って、どうやって作られたか、説明を全部つけました。物に対する愛情が必要。普通商店は仕入先が2箇所くらいだと思う。私がはじめた時は卸がないので全部産直、40とか50社。この仕入先からレモンのジャム一点しか入れない、とか、全部足で集めて、日本中を歩いて物を買って容器の後ろを見て電話してお願いした。そうやって決めた。そのうち卸業者が出来てきたが、大手で訳分からないところは要注意。御茶ノ水のガイアプロジェクトが信頼できる。フェアトレード系は検証しているところは良い。実は現地で買い叩いて持ってきているのも有る。やっぱり自分の足で稼ぐのが一番、最初は電話一本で大丈夫かと思ったが結構この業界いい人が多い。良い相手が一杯見つかりました。
大きく新聞雑誌で広告打ってるところは要注意。それだけ払えるってどこでもうけているの?ておもうよね。後は自分を信じて。エコロジーとエコノミーの区別も付かないでエコってよさそうで儲かるかと相談に来る人もいる。儲からないからやめたほうがいいですよとお断りする。

Q炭を入れた食品どうですか。

さんざんやったが、主流にはなかなかならない。抵抗があると思う。炭の入っているうどんとか。消費者のがわにたつとどうか。それもたまに買うんじゃだめ。コンスタントに買うんじゃないとだめなんです。特に食品は。炭のうどんの排泄物も黒?
Q黒いです。便秘にいいです。出張で旅先などにとてもいいです。
Qかえって大きな企業が炭うどんを売り出してくれれば抵抗感がなくなるのでは?

みのもんたには困った。ブルーベリーや竹酢液など、大変迷惑。テレビに弱くて、ブルーベリー農家もその時だけ売れて、困ったらしいです。

Q志の有る事業をビジネスに乗せると言うのは大変だと思います。これまで犠牲にしたこと最も大変だったことは?

犠牲にした事はない。立ち上がりの6ヶ月の時は必死にならないと立上らないので、うちには家庭がないとしょっちゅう離婚の危機になりました。でもよくしゃべる夫婦だったのでコミューニュケーションをとって彼に全部ぶつけて、結局バオバブをはじめた時は大応援団になった。夫婦の絆も深まった。マイナスは無い。もともとプラス思考。なかなかいい人生ジャン、て。60歳になって思います。

Q健康でないと出来ない。人を使う場合にさっき気になったのが2年でやめていくということ。良い働きだったら長く続けるのでは?人を雇う場合の問題点は?

私は卒業していったと思っている。仕事だけでなく人生も教えたつもり、次の人生、ステップアップ、やめた後もお客やボランティアでくる。健康についてだが、6年前に子宮がんになった。仕事をしたからと関係なく、もともと30代に卵巣腫瘍があったから。癌になっていろいろ学んでこれも私にプラスになっている。癌のことなら何でも聞いてください。主治医の先生は「横山さんどうしてそんなに元気なの?癌なのに」て言います。癌なんかたいしたことない、手遅れにならなければ。今10人に一人は癌なんですよ。

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Posted by 横浜ベンチャーポート at 10:55│Comments(1)社会起業講座をネットで再現
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ワーカーズ・コレクティブ(株)エコネット企画<エコ アミューズ バオバブ>設立趣意書

 高度成長期、私たちは繁栄する工業社会のなかで、石油を軸にした技術革新、合理化によって、簡単便利で「快適」な生活を享受してきました。その結果、すべての価値が物量と金銭ではかられ、地域の小規模な生産やサービスが、重厚長大な産業に取って代わられ、生松のすみずみまで産業資本にコントロールされるなかで、人と人との関係は希薄になり、人々の健康がそこなわれ、大気や水といった生命の存在の前提となるものに至るまえ汚染しつくされ、とどまるところを知らない自然破壊は異常気象を引き起こし、第一次産業をさえ脅かしはじめています。

 そうした状況に対して、私たちは何をしてきたでしょうか?

 「環境問題」が言われはじめてから四半世紀もの時を費やし、ようやく多くの人々のうえに物質文明の終焉と、地球=人類の危機的状況が認識されはじめました。しかし、同時に、ここまで来てしまった巨大な産業社会を変革することの困難さも、認識されているのが実態なのではないでしょうか。

 次々に物を生産することによって成り立ってきた、余りにも大きな経済の仕組みの前では、私たち一人一人の力は余りにも非力に見えます。しかし、たとえ故意でなかったとしても、今日の状況をよくも悪くも支えてきたのは、私たち自身である、とすれば、このツケは私たち自身で払う以外にないのではないでしょうか。そして、オール オア ナッシングの発想ではなく、少しでもよい方向に向けて、一人一人が少しずつできることをするというのなら、そう難しいことではありません。もう一度、生産は私たちの圧倒的な“労働”と“消費”(そして、この二つの基本的行為によって成り立つ“生活”)とに支えられてきたという自明の事実に目を向けなおし、それゆえに、私たち一人一人がまさに問題解決のキーパーソンなのだということを、自分自身で選ぶ権利があるはずだからです。

 しかし、一方的は、質的転換の時代の入口で、迷い、たじろぎ、後ろめたさを感じながら、少しずつ、すこしずつ生き方を変えようとする人がふえてきています。また、早い時期から、こうした問題に気づいた人々による様々な運動、生活表現や問題提起、そして、市民、とりわけ女性たちによるワーカーズ・コレクティブや市民事業など、さまざまな試みは、産業構造の矛盾に対し、多くの問題を提起しつつ、具体的な価値を創出してきました。こうした人々との出会いに支えられて「労働者」と「消費者」=「生活者」というふたつの側面を持つ自分たち自身の自己表現の場として「ワーカーズ・コレクティブ(株)エコネット企画」を設立することになりました。

…二つの側面の一つ「消費者」=「生活者」の視点からは…

 自分たち自身が、生活スタイルを変えるために本当に必要と考えたもの、地球環境や資源を考慮し、心を込めてつくられた「もの」を人々に提供していきます。また、そうした「もの」に込められた“価値”や“心”を、つくった人から使う人へと橋渡ししていきたいと考えます。

 そして、自然の一部としての人間が、本当の意味で豊かになっていくためのあくまでも考える素材としての「もの」をとおして、心あるおおぜいの人々と手をつなぎ、共にエコロジカルな生活スタイルの追求と、生活の質の転換をはかっていきます。

…もう一つの側面「労働者」の視点からは…

 働くことが産業資本の利潤を増大することにつながってきた労働に対し、働いたことが自分たち自身の上に真の豊かさをもたらす労働へと転換をはかっていきます。そのことをとおして自分の人生=時間を、資本に売り渡すのでなく、自分自身でデザインし使い切るという、快適な(本来的な)働き方のひとつの形を提案していきます。そして、準備段階で支えてくれたおおぜいの仲間や、共感し会える人々とともに、英知を集め、かけがえのない地球を、そして、自然の一部としての「人間」を自らの手に取り戻すために「人」「もの」「情報」が行き交うキーステーションづくりをめざして、ささやかな一歩を踏み出します。

ワーカーズ・コレクティブ (株)エコネット企画
松山裕子 横山喜美枝

1994年6月22日
Posted by ひらと at 2007年10月05日 13:07
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